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右大臣(うだいじん)は、日本の律令制において朝廷の事実上のナンバー2またはナンバー3にあたる非常に高い地位です。朝廷のトップの天皇から任じられる官職の一つが右大臣です。
1) 鎌倉時代にける右大臣
鎌倉時代における右大臣は、朝廷(公家(くげ)社会)の頂点に君臨する極めて高い地位でした。そもそも公家とは、天皇に仕える朝廷の貴族たちのことです。武力によって国を治める「武家(武士)」とは異なり、政治や伝統的な儀式、そして高い教養(和歌や学問など)をもって朝廷を支えていた人々を指します。
律令制の最高機関である太政官(だいじょうかん)において、名誉職に近い「太政大臣」、トップである「左大臣」に次ぐ地位です。左大臣が欠員の場合は朝廷の事実上のトップとして国政を担いました。
- 武士にとっての「右大臣」: 鎌倉時代、政治の実権は京都の朝廷から鎌倉幕府(武家)へと移りつつありました。しかし、身分や権威の面では依然として公家が圧倒的に上であり、武士が右大臣になることは異例中の異例でした。
- 源実朝の就任: 鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)は、武士として初めて右大臣に任じられました。これは武家社会にとって歴史的な大事件であり、右大臣がいかに「雲の上の偉い役職」であったかを示しています。3代目でようやく任じられたと考えるとどれほど就き難い職かが分かります!
2) 戦国時代における右大臣
戦国時代になると、右大臣の「偉さ」の質が大きく変わります。実質的な政治権力は完全に失われましたが、武将たちが覇権を示すための「最高級のブランド(権威)」としての価値はむしろ高まりました。この背景には、朝廷、公家の権力が弱まり、武士の社会的勢いが増していることが影響しています。
戦国時代では、実権はないにせよ周囲の大名に「自分こそが天皇から認められた正当な支配者である」とアピールするため官位を求めました。
その中でも右大臣はトップクラスの官位であり、天下を統一するクラスの武将(天下人)でなければ手の届かない地位でした。
織田信長の就任
1577年、織田信長は右大臣に任じられました。信長がこの地位に就いたことは、「室町幕府の将軍に代わり、信長が武家のトップとして天下を治める」ということを世間に宣言する強烈な意味を持っていました。
最後に、鎌倉時代における右大臣といった官職は、実権の残ったものだったが、戦国時代(安土桃山時代等)になると実権はなく、ただの名前だけになったが権威を示すわかりやすい指標になったことが分かります!
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