妙本寺
鎌倉駅から徒歩10分。にぎやかな市街地を少し外れると、深い緑に包まれた静かな谷戸が現れます。ここはかつて、鎌倉幕府の重臣・比企能員(ひきよしかず)一族が暮らした場所。そして権力争いの末に、一族が滅ぼされた場所でもあります。
比企の乱
そもそも比企とはどういう人物だったのか。比企能員一族は、初代将軍・源頼朝の乳母を務めた一族であり、能員は頼朝の右腕として活躍した武将でした。能員の娘・若狭局は2代将軍・頼家の側室として嫡男・一幡を生み、比企氏はさらに将軍家と深く結びついていきました。しかしそれが、北条時政(ほうじょうときまさ)にとっての脅威となりました。建仁3年(1203年)、北条一族の謀略によって比企能員は殺害され、この地にあった屋敷も攻め込まれ、一族の百余人が命を落としました。これが「比企の乱」です。
鎌倉幕府が成立し、源頼朝が亡くなると御家人の権力争いが強くなり、その争いに敗れたのが比企の一族でした。
妙本寺の建立
比企の乱のとき、まだ幼少で京都にいたため生き延びたのが能員の末子・比企能本(ひきよしもと)でした。成長した能本は鎌倉で命がけの布教をしていた日蓮聖人と出会い、「わが一族の菩提を弔ってくださるのはこのお聖人しかいない」と決心し、自らの屋敷跡を日蓮に献上しました。これが妙本寺の始まりです。
日蓮は能本の父・能員に「長興」、母に「妙本」の法号を授け、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けました。また、比企能本は比企大学三郎能本という名前です。滅ぼされた一族の菩提を弔うために作られた寺——それが妙本寺の出発点です。
日蓮宗最古の寺院
妙本寺は日蓮宗最古の寺院として知られています。日蓮聖人を開祖に仰ぐ寺の中で、ここが最も古い。境内の祖師堂が後ろの山を背負うようにそびえ、森に溶け込む姿は鎌倉でも随一の厳かさです。実際に行ってみると、静けさがすごく身が引き締まるような思いになりますよ。
仁天門、祖師堂
総門から参道の杉並木を抜け、石段を登った先に現れる二天門は1840年(天保11年)に建立されたものです。朱塗りの堂々とした門の中央には二体の龍の彫刻が極彩色で施されており、見ごたえがあります。
二天門をくぐると目の前に広がるのが祖師堂です。鎌倉最大規模の木造建築として知られ、反り屋根のなだらかな勾配が美しい建物です。近づくと大きな屋根を支える幾重もの垂木の重厚な作りに圧倒されます。
祖師堂の中に安置されている日蓮聖人像は、日蓮がまだ存命の時代に弟子の日法によって作られたといわれており、現存する日蓮像の中で最古のものとされています。ただし普段は厨子の中に収められているため、直接見ることはできません
蛇苦止堂
境内にはもうひとつ、忘れてはならない場所があります。祖師堂近くにある蛇苦止堂(じゃくしどう)は、比企の乱の際に井戸に身を投げたとされる若狭局を鎮めるために、日蓮が蛇苦止大明神として祀ったお堂です。傍らには「蛇形の井」も残っています。
比企一族が滅びてから約60年後、若狭局の霊が北条政村の娘に取り憑き、まるで蛇のように悶え苦しんだと伝わっています。鶴岡八幡宮の別当・隆弁が説法してようやく鎮まったといい、その後も若狭局の霊が安らかであるよう蛇苦止明神として祀られ、今に至っています。
権力に踏みにじられた女性の怨念が、800年以上たった今もここに宿っている——そう思って手を合わせると、感じるものが違います。
比企一族の墓と一幡之君袖塚
祖師堂前の右手にある4基の石塔が、比企能員夫妻と能本夫妻の墓です。比企能員は北条氏の名越邸で殺害され、屋敷に残っていた一族は畠山・和田・三浦らの軍勢に攻められ百余人が命を落としました。
境内にはほかにも、比企の乱で命を落とした頼家と若狭局の嫡男・一幡の小袖を供養する「一幡之君袖塚」も残されています。将軍の嫡男でありながら、幼くして北条の権力争いに巻き込まれ命を落とした一幡——その小袖だけが、ここに残されました。
さいごに
今回紹介をした妙本寺とは、鎌倉駅から徒歩ですぐ着く場所にあります。しかし多くの観光客は、鶴岡八幡宮、長谷寺、鎌倉大仏のある方向へ向かいます。この妙本寺は知る人ぞ知るような場所になっており、訪れる人の量は少ないです。そんな穴場になる場所からでも十分なほどに当時を知れる材料がそろっています。人が少ないからゆっくり眺めることもできます。やや鎌倉駅周辺のみどころから逸れる場所に位置しているお寺ですが一度行ってみてください!満足できると思います!
比企一族の無念、日蓮の情熱、若狭局の怨霊——妙本寺には、教科書に出てくる鎌倉時代の「その後」が、石塔と井戸とお堂の形で静かに残っています。鶴岡八幡宮も合わせてぜひ訪れてみてください。