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安土城の写真

安土城を紹介します!!
ちなみに、上記の写真は安土城があった山のふもとから山頂に向けて撮影したものです。画像中心の下をよく見ると入口と天守に向かうための階段が見えると思います。(画質悪いですが、何か建物があることを確認できると思います。そこです!)あと、天気悪いですね。

安土城ってどんなお城?

戦国時代のお城の中で、「これより前」と「これより後」を分けた一城があるとしたら、それが安土城です。織田信長が築いたこのお城、ただ豪華なだけじゃなく、日本のお城の歴史そのものを変えてしまいました。築城当時の信長がいかに日本の中心的人物であったかが分かりますね。

いつ、誰が建てたの?

1576年、長篠の戦いに勝利した織田信長が、琵琶湖湖畔の標高約199メートルの安土山に、天下統一の拠点として築城を開始しました。この地は京の都に近く、琵琶湖の水運を利用して京まで出るのに便利で、中山道や北陸道にも通じています。信長らしい、戦略的な立地の選び方ですよね。

ここで、中山道と北陸道を押さえることには、大きく二つの意味がありました。
一つは兵の動員で、もう一つは経済的な支配です。街道を支配することで、人の流れを操作することができます!自軍を素早く移動、物資の補給をして敵を通さない。さらに経済の発展を促す商人を取り込むことができる。街道を押さえるとは、自国を発展させるために非常に重要な項目だったんです!

天主が完成したのは1579年。そこからわずか3年後の1582年、本能寺の変で信長が倒れると、天主と本丸は焼失してしまいます。完成からたった数年で失われた幻のお城——それが安土城です。

なぜ安土に築城したのか

それまでの信長は、岐阜城を本拠として勢力を拡大してきました。1568年には足利義昭を奉じて京都へ上洛し、義昭を将軍に就任させます。当時の京都は、応仁の乱以降の混乱が続いており、室町幕府は弱体化、政治の実権は次々と別の勢力へ移り変わっていた不安定な状態でした。信長はそんな京都の秩序を自らの軍事力で支える立場になったわけです。

しかしその後、義昭は信長に対抗するようになり、1573年についに京都から追放。室町幕府は実質的に終わりを迎えます。京都の支配者は今や信長自身でした。天下統一の最終段階に差し掛かった信長には、岐阜よりもっと京都に近い拠点が必要になっていたんです。

安土は、岐阜城よりも京都に近く、中山道・東山道・北国街道が交差する交通の要衝。さらに当時最大の物流網だった琵琶湖の水運を完全に掌握できる絶好のロケーションでした。岐阜と京都、その間を完全に自分の手に収める——安土はまさにその要の場所だったわけです。地図を見れば、信長がなぜここを選んだのか、今でもよく分かります。

大きさと構造がとにかく革新的

安土城の最大の特徴は、山全体を城郭として石垣を積み上げる「総石垣造り」でした。それまでのお城は土塁が中心でしたが、安土城はお城の姿を根本から変えたんです。

天主台の石垣は9メートルもの高さがあり、その上に32メートルの天主が築かれていました。地上から数えると、合わせて40メートル超。周囲が平地や湖だっただけに、その存在感は圧倒的だったはずです。

天主の構造は地上6階・地下1階の7層からなる高層建築。各階には金銀をふんだんに使った装飾が施されており、来訪者を驚かせることを意識した、まさに「見せるための城」でした。

大手道ー信長の権力を体感できる道

山麓から天主に向かって、約180メートルもまっすぐ伸びる幅広い大手道は、すべて石段で造られています。普通のお城は敵の侵入を防ぐために道を細く曲げるのに、安土城はあえて真っ直ぐ、広く造った。

安土城の現在の道

実はこの道、天皇の行幸を前提として設計されたもの。防衛より、華々しい行進ができる空間として計画されたんです。信長がいかに「権威の演出」にこだわっていたかが伝わってきますよね。

右にある写真は、実際に上っている途中の写真です。この日は夏の暑い日でとても大変でした。なんとこの階段は、一番最初の写真にあった麓の階段から天守までずっと続き、405段もあるんです!!45分から90分かかるといわれていて、実際に1時間ほどかかった記憶があります!行くなら冬がいいですね。

どうせ、織田信長は天守まで行くときには馬を使って苦労せずに上っていたんでしょうね~。

従者は毎度苦しかったでしょうね~。

大手道の両側には豊臣秀吉や前田利家が住んでいたと伝えられる屋敷跡も残っており、発掘調査では土器や陶磁器も出土しています。家臣たちが城の正面を守りながら暮らしていた、一種の城内集落だったわけです。

現在の安土城跡でも大手道を実際に歩くことができます。お城はなくなっても石垣、石の道は残っています。

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