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1) 安土城ってどんなお城?

戦国時代のお城の中で、「これより前」と「これより後」を分けた一城があるとしたら、それが安土城です。織田信長が築いたこのお城、ただ豪華なだけじゃなく、日本のお城の歴史そのものを変えてしまいました。築城当時の信長がいかに日本の中心的人物であったかが分かりますね。

2) いつ、誰が建てたの?

1576年、長篠の戦いに勝利した織田信長が、琵琶湖湖畔の標高約199メートルの安土山に、天下統一の拠点として築城を開始しました。この地は京の都に近く、琵琶湖の水運を利用して京まで出るのに便利で、中山道や北陸道にも通じています。信長らしい、戦略的な立地の選び方ですよね。

ここで、中山道と北陸道を押さえることには、大きく二つの意味がありました。
一つは兵の動員で、もう一つは経済的な支配です。街道を支配することで、人の流れを操作することができます!自軍を素早く移動、物資の補給をして敵を通さない。さらに経済の発展を促す商人を取り込むことができる。街道を押さえるとは、自国を発展させるために非常に重要な項目だったんです!

天主が完成したのは1579年。そこからわずか3年後の1582年、本能寺の変で信長が倒れると、天主と本丸は焼失してしまいます。完成からたった数年で失われた幻のお城——それが安土城です。

3) なぜ安土に築城したのか

それまでの信長は、岐阜城を本拠として勢力を拡大してきました。1568年には足利義昭を奉じて京都へ上洛し、義昭を将軍に就任させます。当時の京都は、応仁の乱以降の混乱が続いており、室町幕府は弱体化、政治の実権は次々と別の勢力へ移り変わっていた不安定な状態でした。信長はそんな京都の秩序を自らの軍事力で支える立場になったわけです。

しかしその後、義昭は信長に対抗するようになり、1573年についに京都から追放。室町幕府は実質的に終わりを迎えます。京都の支配者は今や信長自身でした。天下統一の最終段階に差し掛かった信長には、岐阜よりもっと京都に近い拠点が必要になっていたんです。

安土は、岐阜城よりも京都に近く、中山道・東山道・北国街道が交差する交通の要衝。さらに当時最大の物流網だった琵琶湖の水運を完全に掌握できる絶好のロケーションでした。岐阜と京都、その間を完全に自分の手に収める——安土はまさにその要の場所だったわけです。

そして岐阜から京都まで、安土はちょうどその中間に位置しています。単なる居城ではなく、天下統一に向けた「司令塔」として設計された城でもありました。

地図を見れば、信長がなぜここを選んだのか、今でもよく分かります。

4) 大きさと構造がとにかく革新的

安土城の最大の特徴は、山全体を城郭として石垣を積み上げる「総石垣造り」でした。それまでのお城は土塁が中心でしたが、安土城はお城の姿を根本から変えたんです。

天主台の石垣は9メートルもの高さがあり、その上に32メートルの天主が築かれていました。地上から数えると、合わせて40メートル超。周囲が平地や湖だっただけに、その存在感は圧倒的だったはずです。

天主の構造は地上6階・地下1階の7層からなる高層建築。各階には金銀をふんだんに使った装飾が施されており、来訪者を驚かせることを意識した、まさに「見せるための城」でした。

5) どれだけの人がかかわっていたのか

安土城の築城には、総普請奉行として丹羽長秀が据えられ、全国から職人・石工・人夫が集められました。特に石垣の技術は当時最高水準のもので、天主台石垣の高さ9メートルを実現するには、高度な専門技術を持つ集団が必要でした。城が完成した後も、家臣の屋敷や摠見寺など山全体に施設が広がっており、城内だけで相当数の人々が生活していたと考えられています。

いかにも天下人らしい規模で作業をしていたみたいですね。ちなみに、城に人が住む文化を安土城を通して信長は作っていたんです!次の段落で紹介します。

6) お城に「住む」という発想を変えた

実はこれ、当たり前のように聞こえて、当時はかなり革新的なことでした。

それまでのお城はあくまでも戦いのための防衛拠点であり、大名が城に居住するという発想はほとんどありませんでした。大名は城の麓や近くの館に住み、城はいざというときに立てこもる場所という位置づけだったんです。つまり、戦うための建物だったんですね。

それを変えたのが信長でした。安土城に信長自身が住んだとされており、これを境に多くの大名が城に居住するようになっていきます。天守を政治・権威の象徴として見せながら、そこに実際に住む。防衛拠点だったお城が、権力の「顔」になった瞬間です。

安土城はその後に築かれた大阪城をはじめ、江戸時代の城郭に大きな影響を与えており、近代城郭の原点とも言われています。私たちが「お城」と聞いてイメージするあの形——天守がそびえ、石垣が囲み、大名が住まう場所——そのスタイルを作ったのが、安土城だったんです。

当時勢いのある人物の考えることは常軌を逸しているからこそ、日本の文化にも影響を与えたんですね!

では最後に、この安土城の逸話を紹介します!

7) 石仏を石垣に使った、信長の大胆さ

安土城の石垣には、実は石仏や墓石が転用されている箇所があります。すでに加工されている石仏を使うことで築城の手間を省いたと言われており、このような石は「転用石(てんようせき)」と呼ばれています。

仏罰を恐れず石仏を建材にしてしまう——いかにも信長らしい合理主義というか、常識を平気で破る姿勢がここにも出ています。大手道を歩きながら足元を注意して見ると、石垣の中に転用石を見つけられることがあります。ぜひ探してみてください。

7.1) 仏罰——当時の人々が最も恐れたもの

石仏を石垣に転用した、という話を先ほどしましたが、これがどれほど常識外れのことだったか、当時の感覚で考えてみましょう。

戦国乱世は生と死が隣り合わせの時代。そんな日常の中で、人々の神仏への信仰心は現代とは比べ物にならないほど強いものでした。病気、飢饉、戦——どれも「仏の怒りに触れたせいだ」と解釈される時代です。仏罰は、いつ降りかかるかわからないリアルな恐怖でした。

それは武将も例外ではなく、どんな武将も神仏の加護を頼りにしており、戦勝祈願や軍神崇拝は家臣たちの士気を高めるためにも欠かせないものでした。また仏教はただの「信仰」にとどまらず、宗派間の争いが武力衝突にまで発展するほどの力を持ち、僧兵が武装して他宗派を襲撃するような事件も起きていました。お寺は祈りの場であると同時に、政治的・軍事的な権力そのものでもあったんです。

そんな時代に、石仏を城の石垣に組み込んでしまう信長。「仏罰など恐れない」という強烈なメッセージでもあったこの行為は、民衆や他の武将たちの目には、ある種の「狂気」に映ったはずです。

ちなみに!現代の日本で当てはめて考えると恐ろしさが分かると思います!

信長が仏罰を恐れずに行った行為は、たとえば靖国神社や有名寺院の御神体を、公共工事の資材として埋め込んでしまうようなイメージに近いです。法律的にアウトなのはもちろん、社会的な炎上どころか国民的な怒りを買うレベルの行為です。

しかも当時は、現代よりはるかに仏への畏れが強い時代。「罰が当たる」が比喩ではなく、文字通り現実の出来事として信じられていた時代です。それをやってのけた信長の胆力、あるいは常識からの逸脱ぶりは、現代人の感覚で見てもやはり異質です。怖いですね~。

どれほどのものか伝わりましたか?
この記事では歴史について紹介しました。ほかにも安土城について記事がありますので興味があれば読んでみてください!

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