Table of Contents
織田信長、徳川家康といった有名人物かつその家の当主と呼ばれる人たちがどのような地域に住んでいたのか、どんな生活だったかはよく焦点に当たることが多いです。では、その家に使える家臣たちはどこで暮らしていたのでしょうか?
この記事では特に安土城での織田家家臣がどこでどのような暮らしていたのかについて紹介をしたいと思います。
1) 家臣たちは安土城のどこに住んでいたのか
もちろん安土城は信長が住む天主だけのお城ではありません。実際に山全体に家臣たちの屋敷が配置され、まさに「信長を中心とした城下」が山ごと作られていました。大手道を歩くだけで、誰がどこに住んでいたのかが見えてきます。
2) 秀吉邸跡
大手道の左右には重臣の邸宅が並んでおり、右には前田利家邸跡、左には羽柴秀吉(豊臣秀吉)邸跡があります。つまり、登城する人が最初に目にする一等地に秀吉の屋敷があったわけです。後に天下人となる秀吉が、信長のすぐ近くで暮らしていた証ともいえます。
右の写真は秀吉邸を発掘調査した結果得られた図で、安土城へ行くと実際に見ることができます。

秀吉邸跡は、大手道のすぐ脇に位置する大規模な屋敷跡で、上下二段の郭で構成されており、その間を幅2メートルほどの通路(武者走り)が結んでいます。
下段と上段では、役割がまったく違っていました。下段には櫓門と厩(うまや)、上段には主殿を中心とした居住空間が配置されていました。つまり、手前のエリアは来客対応や馬の管理といった「実務スペース」、奥のエリアが秀吉自身の生活の場だったわけです。
特にこの秀吉邸の櫓門は、現存する城郭建築の中で最古の例として知られています。大手道を登るとまず目に入るのがこの櫓門と厩――来客はまず秀吉の「実務エリア」を通り抜けてから、奥の生活空間に向かう構造になっていたんです。
発掘調査では、羽柴秀吉邸跡から建物の柱となる礎石が検出され、屋敷全体の建物構成がすべて明らかになっています。大手道沿いの屋敷の中でも、特に発掘が進んでいる貴重な事例のようです。
実際の秀吉邸の跡地を見てみると分かりますが、めちゃくちゃ広かった屋敷だと感じらるはずです。

上の写真は、安土城内の入山口付近にある現在の秀吉邸跡地の一部です。地面を見ると、目でわかるほどの石があちこちに落ちていることが見てわかると思います。これは発掘調査によって検出された遺構の意味があります。
実際にこの地を踏んでみて、本当に広かった記憶があります。これだけの広さの屋敷を構えていたと考えると、羽柴秀吉がどれほどすごい人物であったのかが容易に想像できました。当時の百姓の家の大きさは、10から20平方メートル程度で6~12畳の大きさだったみたいです。羽柴秀吉は百姓から武士に大出世をした人物であることは有名ですが、家の大きさが格段に広くなっているのが分かりますね!

3) 前田利家邸跡
右の写真が前田利家邸跡になります。
大手道を挟んで秀吉邸の向かいにあるのが、前田利家邸跡です。敷地面積は少なくとも3000平米以上と推測され、上・中・下段の3段からなる構成になっています。秀吉邸が二段構成だったのに対し、利家邸はさらに一段多い三段構造。秀吉邸と並ぶ、大手道沿いの一等地です。
ちなみに、3000平米というのは小学校体育館3つ分、25mプール8個分の広さを持つのと同じことだそうです。それをただの家臣である人物が屋敷として構えていたというのは信じられないですよね~。いかに前田利家という人物が織田家で重要であったかが分かりますね。
また、前田利家は有名な「加賀百万石」の礎を築いた人物でもあるので妥当かもしれません。
構造も秀吉邸とよく似ています。大手道から入る入口の先には厩があり、さらに進むと石段を登って奥座敷へと続きます。つまり利家邸も、「手前が実務・警備のスペース、奥が生活空間」という同じ考え方で設計されていたわけです。
防御面でも工夫がありました。門をくぐると左手には高さ約6メートルにも及ぶ三段の石垣がそびえ、その上から多聞櫓が侵入者を見下ろす構造になっており、近世城郭を思わせる高い防御性が安土城築城時にすでに取り入れられていたことがわかります。
そして暮らしの跡も見つかっています。伝前田邸跡からは土器や陶磁器など多数の生活遺物が出土しており、城内で生活が営まれていたことがわかります。また茶器や香炉といった嗜好品も出土しており、合戦とは無縁の優雅な生活も存在していたことがうかがえます。
戦のための城でありながら、家臣たちは茶器を愛でるような暮らしもしていた——そのギャップも、安土城の面白さのひとつですね。

4) 織田信澄邸跡
安土山の中腹には、織田信澄をはじめとする家臣たちの屋敷跡の石碑が残っています。右の写真の左側の石碑です。
山頂の天主に住む信長を護衛するため、このように家臣の屋敷を数多く建てていたと考えられています。信澄は信長の甥にあたる人物。血縁者を信長に近い場所に配置することで、護衛体制を固めていたことがうかがえます。
5) 森蘭丸邸跡
三叉路を右に折れ、黒門跡へ向かう途中には森蘭丸の名で知られる森成利の邸跡があります。右の写真の右側の石碑です。
蘭丸は信長の側近として随侍し、敵方との折衝などにも力を発揮した人物です。天主のすぐ近くという立地からも、信長がどれほど蘭丸を信頼していたかが伝わってきます。本能寺の変では、信長と共に最後まで戦って命を落としたことでも知られています。
この織田信澄と森蘭丸の屋敷跡の石碑は、天守閣跡に登る途中にあるものなので、誰でも確認することができます。実際に確認すると、山の頂上に近いところにあったので、とても重要な人物、信頼されていたことが分かります。
他にも様々な武将が自分の屋敷を安土城に構えていました。今回紹介したのはほんの一部です。
羽柴秀吉、前田利家はそれぞれ長浜城、越前府中城の城主として自分の城を持っている人物達です。つまり、それぞれ立派な城、屋敷を有しているのにもかかわらずさらに安土城でも大きな屋敷を一等地にもてるだなんてうらやましい限りですね。
さらに秀吉に関しては、安土城完成後に中国攻めとして今の中国地方で毛利と戦いを続けていて長浜城にも安土城の屋敷にも留守をすることが多かったみたいです。なんかもったいないなと感じてしまいますが、それだけ織田家で重要な人物であれば忙しいのも納得します。
今回は安土城に住む家臣がどれほどの暮らしをしていたのかを簡単におおざっぱに説明しました。ほかの安土城関連の記事もあるのでお願いします!
Back to top- コメントを投稿するにはログインしてください